人権について思う①

1. 人権が立てられることの意義(法の客観性)

 人権を尊重すべきことは、今日、さまざまな場面で述べられる。

 人権が大事であることは、これまで自己決定の機会を奪われてきた、社会的に弱い立場に置かれた人々のことを考えれば否定できないであろう。例えば、DVを受けてきた女性や子どもがそれに抵抗すること、相手に自分の意見を言うことは、立場上、極めて難しい。今日においても、男女や親子の間には権力差が厳然としてある。そしてまた、女性が自らの意見を主張することは「不道徳」とされてきた歴史・慣習がある。その道徳は男女の間の権力関係によって作られ、それによって道徳が抑圧となるのである。

 2001年にはDV防止法が成立し、家庭にも「法」が介入することになった。かつて家庭は無法地帯であった。無法地帯であるがゆえに、性差による権力構造が問われることがなかったのである。その無法地帯としての家庭に、法が立てられたことの意味は大きい。

 なぜなら、DVやハラスメントは、愛情やしつけといった主観性のもとになされ、暴力を振るわれる側は、その「愛情」にからめとられてしまうからである。それによって、抵抗することが「愛情」に背く、不道徳なこととして意識されてしまう。

 そこに「法」という客観性、そして権利という概念が導入される。それによって、ようやく、「愛情」という主観のもとでの暴力、道徳の名のもとでの抑圧を問題にすることが始まった。弱い立場に置かれた個人が、その置かれた状況を、権力差に基づく不当な仕打ちとして認識し、それに対し自らの「人権」を行使しえることを自覚することは、極めて大切である。

 

2. 揺らぎ――人権の根拠への問い

 一方で私は、「人権」の根拠とは何か、ということを疑問に思う。人権については、それを自然権とする見解と、実定法により附与される権利とする見解がある。アメリカをはじめとした西側諸国は、人権は生まれながらにして人間に備わっている権利、すなわち自然権として見ている。いわば、「天賦人権」なのである。

 アメリカ独立宣言には、「すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる」と記される。いわば、「神」(天)が人権の根拠なのである。

 しかし、近代においては神は死んでしまった。天賦人権の根拠としての「天」が消えてしまったのである。すると、人権の根拠は何であるのだろか。このことは曖昧であり、現状は、「皆が人権があることが望ましいと思っているから、人権があることにしている」となっているのではないか。すると、実は天賦人権の「天」は、「皆」という何らかの権力主体にすり替わっているのではないだろうか。

 このことを考えさせられる、二つの事例がある。

 一つは難民問題である。

 難民・亡命者とは、国家への所属から漏れ出た存在である。日本の入管におけるスリランカ女性の死亡事件に見られるように、国家に所属しない、すなわち国民でない者に対しては、国家はしばしば「人権がない」扱いをする。いわば、ここでは、人権を付与するのは「天」ではなく、実質的に国家となっている。そして、国家は国民に人権を付与し、その権利を守護することで国民国家を形成する。天賦人権の「天」の根拠が曖昧な今日、それを付与する主体が国民国家となり、その国民国家はいつでも自分たちの都合で、人権を付与する者と、奪う者を選別していくのではないか。

 二つ目は脳死・臓器移植の問題、あるいは安楽死尊厳死の問題である。

 多くの国では、脳死した状態の人は「死者」と扱う。日本の現行法においては、本人の生前意思あるいは家族の承認がある場合は、臓器移植にかかる脳死判定が可能となっている。いわば、脳死者は「人として生かす」対象から外され、「人でないものとして死なせる」のである。

 

3. 人間として生かす者/人間でないものとして死なせる者の弁別 

 このことは人権を考えるにあたって、非常に大事なポイントとなると感ずる。天賦人権とはいっても、そもそもその前提として、「人」と「人でないもの」が、何らかの基準によって弁別されるのである。そして当然、「人でないもの」には人権は認められず、生存権が認められない。

 すなわち問題の要は、「人間とは何か」ということにある。人権思想は、近代の人間観の上に築かれてきたといってよい。だが、その近代以降の人間像が揺らいでいるのが今日の時代であろう。そこに当然、人権思想も揺らぎ、さまざまな問題が引き起こされていく。

 次回は、近代の人間像と、そこにおける人間/人間でないものを弁別する規準、そしてその弁別が引き起こす事象を考察していきたい。