人権について思う②―人間と人間でないものを分ける基準

前回は人権を考える中で、そもそも人権を与えられる対象である「人」と、人権を剥奪される「人でないもの」が選り分けられる問題があることを述べた。

今回は、この人間/非人間を分ける境界について考えてみたい。

 

1. 相模原障害者殺傷事件

 2016年7月に起こされたこの事件については、多くの識者が分析をしている。植松死刑囚は、なぜ障害者、特にその中でも知的障害者を殺傷の対象としたのか。

 この点について彼は、雑誌『創』に掲載された手紙で次のように述べている。

世界人権宣言第一条には、

「すべての人間は産まれながらにして平等であり、かつ尊厳と権利とについて平等である。人間は理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とあります。

まさに仰る通りですが、世界には”理性と良心”とを授けられていない人間がいます。人の心を失っている人間を私は心失者(シンシツシャ)と呼びます。

(『創』2017年9月号、28~29頁)

 世界人権宣言は、人間は尊厳について平等であると記す。同時に人間は理性と良心を有するとも記す。植松死刑囚はこれを逆読みし、理性と良心を有さない者は人間でない、そしてその者に尊厳はない、という見解を述べようとしている。

 すなわち、ここでは人間と人間でないものを分ける基準が「理性と良心」とされているのだ。逆説的であるが、あらゆる者の尊厳を擁護するはずの世界人権宣言が、そこにおける人間像が「理性と良心を有する者」と設定されることで、「人間でない者」=人権を付与されない者を創り出す機縁となったのである。

 

2.  人間/非人間を分ける基準としての理性

 上掲した世界人権宣言の言葉は、デカルトの『方法序説』一節を参照していると思われる。それは、「良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に分配されている」、「良識あるいは理性(raison)とよばれ、真実と虚偽とを見分けて正しく判断する力が、人々すべて生まれながら平等であることを証明する」という一節である。

 ところが『方法序説』でデカルトは、よく知られるように「我思う、故に我あり」と、「我」という主観を打ち立てた。そして、その主観が対象的に客観を観察し、分析するという、主観・客観の構造が確立した。そのような「我」(主観)は、あらゆるものを、自分を出発点として見て、評価し、利用する。ここに近代的主体が打ち立てられた。

 その近代的主体は自らの理性により思惟し、克己や抑制、状況適応をする。そのことは、実は、近代の科学文明の発展、資本社会の発達と一つであった。近代における理性は、その有効なツールであったのである。そして、その理性を有する市民は人間として人権を付与され、理性を有さない(と見える)精神病者知的障害者市民社会から排除される。いわば、「人間」と見なされず、人権を付与されない。

 相模原障害者施設殺傷事件は、このような「理性を有する人間」という人間像のもつ問題が噴出した事件なのではないだろうか。さらにその理性、そしてそのもとでの尊厳、そして権利というものが、逆説的に人間を抑圧し、苦しめることになっていることを問いかけているのではないか。その人間像は、今日、障害者のみならず、いわゆる健常者をも苦しめることになっている。

 根本は、人間像の問題、そして「人間とは何か」という問題である。そして、私たちが日ごろ自明としている「人間」というものが、実は無根拠であることが露呈したのが、この殺傷事件であり、さらに現代という時代なのではないだろうか。

 次回は、再び人間と人間でないものを分ける基準について、歴史を遡り考察していきたい。